小さな個人的判断。

みんながぼくのことをなんといっているか、そんなことはよくわかっている。ぼくの味方になってくれるか、それともあの連中の肩を持つか、それはきみが勝手に決めることだ。
―T.カポーティ「ぼくにだって言いぶんがある」(冒頭)

今の時代において「良い建築」とは何か。「悪い建築」とは何か。
信教の自由から絶対的な価値基準がなくなり、示すことができなくなってしまったようだ。それは、さながら馬にすがるニーチェのような…
いや、そもそももっと単純なところにこの価値判断の材料は転がっているように思える。


まぁ、そんなことをゴチャゴチャと考えていても、答えがないのは十分に理解しているつもりだ。
しかしながら、それがあたかも絶対的な価値があるように振る舞う人たちが多い。
そんなもの内輪のネタに巻き込まれているようなもので、甚だ、迷惑だ。


それならば、近代建築のそれのようにスタイルを統一してこれと似たようなものは「良い建築」である…とか言ってくれた方が単純明快であるのだが、それすらも通用しなくなってしまった。
(つまり、歴史的背景における絶対的な評価軸の喪失であるが、実際のところ「歴史」という後天的生産における矛盾でもあるのだが…)

様々な価値判断ができてしまった昨今、ぼくたちは小さな個人的判断に身を委ねるしかない。
著名な人たちの評価に、ぼくたちは決して負けずに自らの経験則から打ち出される小さな判断を、悠然としていかなくてはならなくなったのだ。
現在はその様な構造をもっているのだ…と。



このような時代に生まれてしまったのだ。
いまさら、後悔してどうする。




何も考えずに、出してきたただそれらしいもの。かっこ良いもの。結局、評価する人間によってそれが素晴らしいのか、ただの自己満足なのかが決まる。虚無主義者として、そんな権力的な評価がどれだけ下らないものなのかを主張したい。つまり、評価する人間はいつでも竹輪野郎だってこと。
Twitterより

中身の無いものになってしまったのは、何もそれだけでは無いということでもある。