メディア(媒体)による、建築への価値・評価。

「マス・メディアによって動かされる世論。」などと大仰に書き記すこと自体が何らかの義憤をもっていて、憚られる。しかしながら、そのような言葉を目にした私たちは何を考えるだろうか。

例えば、「何らかのムーブメントが起こされることで、今まで少数派であった者たちが多数派へと移動してしまう。」または「もとより0であったものに人々の関心が向いて100になる。」などだろう。これを言葉にして人々の“意識の移行”ということにする。


「ぼくは行くよ、お別れだ、とフェレールは言った。」
−ぼくは行くよ(ジャン・エシュノーズ)


サイバースペースという高台〉
建物が生産する価値・評価に関する見方については、前回、記した通り“欠落したテクストを補う作業”とした書物の読解(コンテクストをテクストと符合させることで建物のテクスト足らしめること)の中で、作家性の責任(肩書きに対する正統性)を負担しながら決定づけられるものとすることができる。また、このように決定づけられる認識は、根底に基本的な歴史性を持っていることが、コンテクストを生産する(される)と証明できるだろう。そこで、今日の建築はどのような現代性を帯びているのか。その歴史認識から価値・評価に関する見方が選択できるはずだ。


所謂、プラトン二元論から始まる現実と虚構の二項対立から、サイバースペースという第三の選択が与えられていると言える現代。現実世界において、人々は現実から立ち去って行き、その隙間に虚構が現実になろうとしてくる。そして、そのサイバースペースが虚構にとって代わる存在として、またはデジタルデバイスとして、不安からの避難場所として身体感覚の中に入り込んでくる。つまり、人々は現実が恒常的に与え続ける不安から逃げ出し、フィクションとは割り切ることのできない状況によって、サイバースペースが提供してくれる甘いお菓子に中毒になってしまう。さらに、人々が現実から逃げ続けるために今度は現実が虚構に擦り寄りはじめ、過去のスペクタクルとして虚構の物真似をはじめる。


このような歴史認識から“意識の移行”について考えてみると、その行動は現実と虚構のスペクタクルの中で育まれ、成長した姿はどちらとも似つかないものになってしまい現実逃避とも言える。これは建築を歴史から引き離し、お手軽な媒体を通してコンテクスト自体の欠落を目論んでいるとみえる。いや、むしろ、フィクションとしての現実をひとつのコンテクストとすることと言えるだろう。偽のコンテクストを、強迫観念のように私たちの意識に刷り込もうとしている。



〈他者による価値創造〉
歴史から引き離された建築は、何を持ってして価値を得ることができるのだろうか。線分上にある作品をおいて評価することができない以上、「おしゃれ」、「すてき」、「きれい」などという相互理解を強要するテクストに依存するほかない。不特定多数の他者による価値・評価の一定ラインを受け入れるのだ。他者は自分の属するサイバースペースの多数派であり、そこでは皆が同じ方向を向く。幾重のレイヤーにも重ねられたパラレルに存在するクラスターを横断する時にも、同様なのである。


結局、マス・メディアが世論を動かしているわけではなく動物の群れの中のトップに君臨しているものが次の餌場を探すために舵をとっているに過ぎない。国家や大陸、もしくは法律、これらで示される物理的制約や精神的拘束による背景には、不可分であった脈々と続く歴史と建築を社会システムの中で欺きながら切り離し、お互いのズレを許容しながら仮想の歴史の軸を生み出しているのだ。そしてこのズレは、これからも肩書きの責任のない者達が拡大させていくだろう。