建築に必要な物として:〈書き手の意図の模索〉

前の記事を更新してから随分と時間が経ってしまったが、特に気にしない。


「書くことはそれだけで、情報を多かれ少なかれ時間や場所、受容の条件や読者の数から独立なものとしてしまう。」
−「書くこと」という形式(N.ルーマン

前記した通り歴史書や論文と雑誌などの大衆に向けられ刊行された書物は、明らかな違いがある。もちろん、学術書の位置づけがなされている歴史書のように検証と証明が必要なものとは、非常に異なる性格をもった書物であるということだからである。



これらの違いは、ある種の書物であることへの正統性を獲得するための振る舞いであると言えるだろう。著者の肩書きによるところの責任である。肩書きを自己認識した後に、それらに既に与えられた役割に対する責任である。自然発生的に植え付けられるこのステレオ・タイプの幻想を享受し、書き手は模索することになる。では、以上のような違いを前提として建築の世界をみてみる。また、前記したものと建築の世界に於ける語彙と置換をすると、書き手=設計者、読み手=利用者となることは疑う余地はないだろう。



〈テクストなき建築物〉
書物には、必ずテクストがついてくるが、建築物の話になるとテクストよりもコンテクストが重要になり、読むこと自体に一定の努力を要求されることになる。もちろんこれは、建築の世界に限った話ではなく、テクストの存在する世界ですら要求されるものである。しかしながら、テクストの理解というものは個人の歴史観や状況を把握するための時事情報などを最低限のラインとして線引をしない。つまり、文字を文字として正統に理解することのみが要求されているのみであり、コンテクストに比べると比較的安易な知覚の方法とみられる。


もちろん、テクスト抜きでコンテクストを理解することができないため建築物への理解は、所謂、空間体験に頼った情報のみで全てを把握したという事にはならない。そして、ここで重要になってくるものは、書き手の肩書きを理解することである。その人は、どのようにして形成されたのかを、どのようにして作家性を獲得したのかを、フィクションとして与えられた役割をどう演じているかを、知る必要がある。これを、学術書として位置づけられた正統な読み物とパブリック・イメージを均等に把握する必要がある。



謂わば、これは欠落したテクストを補うための作業である。先程も述べたが、もちろんこれは建築の世界に限った話ではないのだ。