読書。

「そして、ぼくはディーン・モリアーティのことを考える、とうとう見つからなかったあの老ディーン・モリアーティ親父を考え、そしてまた、ディーン・モリアーティのことを考えるのだ。」
−路上(J.ケルアック)

〈「正しい」読書〉
本に種類があることは間違いない。一般的に、それは雑誌や小論、随想等々があり、それらによって読み方のタイプがあるのだろう。それらに対して、読み方を強いるやり方は確かにまずいだろうと思う。しかしながら、歴史書に対して「俺はこう解釈したから」なんてことを言われたら、それこそが寧ろまずい読み方だろう。



「正しい」読み方を仮定してみると、その中には真摯な態度(それらの特質に合わせた読み方)というものがあるはずだ。例えば、F.O.ゲーリーは、雑誌を読まないという。これは、恐らくアイデアにおける既視感を初めの段階から排除するためであろう。つまり、雑誌は、歴史書のように事実をそれとして受け止めることを放棄し、直感的に読むことと感性を要求されている。これが、雑誌における真摯な態度であろう。



例えば、詩のような著者による経験的事象の分析が書かれている類のモノがある。これは、精神の動きを感じ感動を生ませるものがある。これは、例えば、メソッド演技のように、そこにある状況や感情に重点を置き演じられている。ここでは、その者の魂を感じる態度を取ることが要求される。




〈無関心な読書〉
以上のようなタイポロジーを獲得している読書という所作は、一定の水準で正当な行動傾向を持っている。確かに、W.H.オーデンの言うように、見る前に跳ぶことも必要であると思うため、信仰心(正しいと思うことへ向かう心の動きとでも言うのか…)もある。だが、やはり読書というものに、本の種類が存在する以上、その分類を疎かにしてしまうことは、この情報過多の時代特有の自己分裂的な混乱を導いてしまう。


「正しい」読み方に向かい合おうとしない場合には、凡そ、取捨選択の恐怖に怯え正統なやり方から遠ざかり、角ばった「自由」に踊らされてしまう。それは、やはり通時的にしろ共時的にしろ、理解には何かしらのパラメータが必要であるからであり、以上で述べてきた「正しい」というものは、すなわち、ある共通の軸を持った評価基準であるということに尽きる。


これで、僕らが何かを勝ち取るために真摯な態度を取らざるを得ない事実が明瞭になるだろう。また、読書というものは、その真意を掴み、多くの事象を知った後、それのコンプレックスが問題になる。どれだけ美しい一編の詩を知ったことが重要なのではなく、それがどう素晴らしいのかを比較的に弁論出来るのかどうか。これが、必要であり、それまでが読書なのだと思う。